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Fateの「文学性」ならぬオタク性


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※この記事は大塚英志「物語消費論」を参照してfateを解説したものですが、僕の物語消費という語の解釈が本当に正しいのか微妙なのでご了承ください。(何も本とか資料見ないで書いてます。引っ越したばかりで探すの面倒なので)
 
主に以下の本を参考にしています。(っていうかパクリみたいなものかも...)

 

Fateは文学」と半分ネタでいわれることもありますがFateが「文学」だという主張は必ずしも間違っているとは思いません。たしかにfeteは少年少女の教養小説(成長物語、ビルドゥングスロマン)としても読める、という意味では「文学」的ではあります。しかし個人的にはfateという作品はとてもオタク的であるとも思うので、そのことについて書いていきたいと思います。

 

 
まずfateのオタク性は上記のような「文学」性とは別の位相にあるように思います。また人文系の修士号を持っているという奈須きのこの作家としてのバックグラウンドとも無関係だと思います。
 
そこでfateのオタク性とはどのような意味なのかについての結論を述べますと、fateが、評論家の大塚英志がいうところの物語消費を受け手に駆動させるような構造だから、ということになります。(受け手に妄想させるから、と平易に言い換えてもよいです)
なぜ物語消費的=オタク的なのかという点についても後に説明します。
 
物語消費という概念について
 
例えば生産者(送り手)がいて、それを消費者(受け手)が消費するというのが通常の「消費」だとします。
 
一方「物語消費」は無自覚のうちに消費者(受け手)が生産者(送り手)になるという事態のことを指します。それについては「進撃の巨人」を例に以下で具体的に説明します。
 
作者の諫山創はおそらく自覚していないと思いますが進撃の巨人は物語消費を利用した作品だといえます。
この漫画は多くの「伏線」を作品内に配置し、謎が謎を呼ぶようなストーリ展開を特徴とします。(作品の後半は趣旨が違ってきますが)
作品内に多くの謎があるがゆえに読者は先の展開を想像(妄想)し5chのようなsnsに書き込みをするのですが、「進撃」が持つ、読者に先の展開への想像を駆動する力の強さは、乱立する進撃の巨人考察まとめサイトの隆盛が証明しているといえます(あるブログの試算では進撃考察アフィサイトの月の収益200万円)
5chに「進撃」の考察を書くような人は、時間的なリソースを費やして、基本的には1円の得にもならない考察をするわけですが、ここでは生産することが消費であり、消費することが生産である、という消費のあり方が成立しています。物語消費とはこのような消費のあり方のことをいいます。(とある魔術の禁書目録ONE PIECEもこの類いの作品だといえます)
 
ニコニコ生放送にも同じことが言えます。昔は、ニコ生主は月500円のプレミアム会員費用を払い(消費)、生放送(生産)をしていました(今は無料で生放送ができるようですが時間的なリソースを消費していることに変わりありません)ここでも上記のように、生産することが消費であり、消費することが生産することである、という構図があります。
 
遠回りになりましたがここでfateがなぜ物語消費的(オタク的)といえるのか、という説明に入ります。
fateシリーズでは神話に登場する神々や伝説上の英雄が登場し戦いを繰り広げます。例えばfateシリーズの一作目であるfate stay/nightにはバーサーカーギルガメッシュといったキャラクターが登場しますが、これらは元々北欧神話メソポタミア神話に登場する存在です。ここで必然的に受け手は、北欧神話をモチーフにしたキャラクターが登場するならギリシア神話インド神話をモチーフとしたキャラクターの存在も想定することになります。これがまず一点。
また、stay/night(原作は18禁pcゲームソフト)には主要キャラクターのステータスが確認できるモードがあり、攻撃力や素早さがランク付けされているのですが、攻撃ランクBのキャラクターがいるなら、ランクAのキャラクターも存在するかもしれない、と受け手に妄想させることになります。要するにいろいろと設定を詰め込んで細部の積み重ねが全体(細部にないものも含めた)を作るということです。
fateは派生作品やスマホゲームのヒットで商業的に大成功しましたが、この成功は以上のような物語消費の欲望を喚起させる作品設定の裾野の広さに由来するものだといます。
 
なぜ物語消費=オタク的といえるのか
 
オタク的とはなにかというのを定義するのは難しいのですが、大きな物語が失われたあとにそれを贖うように仮構の中に大きな物語を再構成することだと定義すればオタク的とはなにかということの一部を説明できるのではないかと思います。
近代社会はある種の理念を達成することを目標としてきましたが、大きな物語とはこのような目標のことです(具体的にはマルクス主義や高度経済成長など)
世の人々がその内側にいることで「自分」を担保できるように見せかけてくれるような錯覚だと言い換えても良いかもしれません。(これを悪用したのがオウム真理教です)
この大きな物語の自明性が崩壊した後の時代をジャン=フランソワ・リオタールという哲学者は1979年の「ポストモダンの条件」という著作でポストモダンと呼びました。
 
仮構の内に大きな物語を再構成した作品の代表的な作品としてはスター・ウォーズ機動戦士ガンダムシリーズがあります。たとえば∀ガンダムでは黒歴史という言葉がありますが、これは受け手に全体を構成する細部としての黒歴史を想像させる機能を果たします。またスターウォーズは周知の通りエピソードⅣから始まるのですが、それゆえ必然的にⅠ、Ⅱ、Ⅲを受け手に想像させることになります。
 
文学もスターウォーズの影響を受けサーガ(大きな物語)化していきました。
村上春樹は1979年(ポストモダンの条件の刊行と同じ年だというのは示唆的です)風の歌を聴けでデビューしましたがこの作品は、それに続く2作(1973年のピンボール羊をめぐる冒険)と合わせて「鼠三部作」と呼ばれるサーガを成しています。ちなみに村上春樹の作品に関してはその細部を論じた「謎本」が多数出版されており、それは春樹の作品が読み手に妄想させるような構造を持っていることを証しているといえます。
 
また村上龍は5分後の世界だかなんかの作品(うろ覚え)について、「小説を書くときに地図を作るのが好きだ」という旨の発言をしており、これはfateONE PIECEが作品内に設定(細部)を積み重ねて全体を作るという手法とパラレルな関係にあるといえます。
中上健二も物語を作るうえでスターウォーズを意識した発言をしていて(現代小説の方法)、「路地」を舞台にした「紀州サーガ」を書いたことはよく知られます。
 

 
麻原彰晃のカリスマ性は、大きな物語の自明性が失われた後に、ジャンクの寄せ集めに過ぎないにしても、信者に擬似的な大きな物語を提示し得た点に由来したのだといえます。
たとえばオウムの教団内にはMAT(マンガ・アニメチーム)という広報用のアニメを制作するセクションがありましたがこれは「帰ってきたウルトラマン」の特殊部隊であるMAT(Monster・atack・team)のパロディです。またオウムはコスモクリーナーという空気清浄機を使用していましたが、これも「宇宙戦艦ヤマト」に登場する放射能除去装置のパロディとなっています。このことからオウムは「おたくの連合赤軍」と呼ばれたりもしました。
 
大塚英志がしばしば評論で書くことですが、村上春樹はオウムの一連の事件を受けて、自らの作品がオウムと同じく、村上のいうところの「ジャンクの寄せ集め」であることから一瞬目をそむけながらも結局は地下鉄サリン事件の被害者たちに取材した「アンダーグラウンド」を書きました。(村上春樹の小説が多くの引用から成り立っていることは一読すればわかることだと思います)
これまで書いてきたように仮構の内側で細部の積み重ねにより全体を再構成しようとする流れが、文学、映画、マンガ、アニメの領域で起こるのですが、fateもこの流れのなかにあるといえます。
fateがオタク的だというのはこのような意味においてです。
 
「物語消費論」が刊行されたのは1989年ですが、この理論の射程は2021年現在にも達しており、「進撃の巨人」のヒットを見るにサブカルチャーにおいて一部の作品は細部の積み重ねを更に徹底させる方向に進んでいくのではないかと思います。
 
 
 
 
 

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