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まつたけ大王のブログ

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うおおおおおお!大谷翔平が結婚したぞ! 結婚相手は?交際期間は?

大谷翔平が結婚したらしい。

 

当然"世間"は大騒ぎする。そしてその鬱陶しさについて表明する人がたくさんいる。

 

不思議なのは大谷のニュースが鬱陶しいという人たちはなぜテレビをハードオフにさっさと売り払わないのかという点につきる。

 

テレビはyoutubeまとめサイトと比べると相対的に受け手の選択肢が少ないメディアである。

例えばTBSで大谷の結婚報道が流れていて鬱陶しいのでフジテレビにチャンネルを替えたとする。フジテレビでも大谷の話題なのでテレビ東京に替えるとまたもや・・・

といった具合にテレビというメディアではどこまでも大谷が追いすがってくる、という

ことがまれによくある。

 

"大谷疲れ"を表明する人はテレビを付けっぱなしにしているのではないか?

 

まとめサイトもくだらないメディアだが、少なくとも、大谷に興味がなければその記事を開かないという選択をとることは可能ではある。

 

テレビなどいちはやく売り払いなさい。これに尽きる。

 

そもそもホモじゃなければ大谷が結婚しないわけないだろうよ。

 

マッチングアプリの統計でも男性が結婚までこぎつけるための最重要要素は収入だと結論がでている(女は若さが最も重要。身も蓋もない)

 

いうまでもなく大谷翔平はものすごくお金もちだ。全国の小学校に3個ずつグローブを配ったら、なぜ9個じゃないんだ!といいがかりをつけられてしまうほどの大金持ちなのだ。

そんな大谷が結婚しない(できない)わけがないではないか。

 

まあ私に言わせれば大谷でまんせーしてる連中は大谷の身長が193cmであることをもっとよく考えるべきだと思う。

 

日本で街を歩いてたっぱが190超えてそうなやつを見ることなどほとんどないのではないか。

190cm超えていたらもはや日本人でありません。助っ人外国人だ。モンゴル人力士みたいなものじゃないか。助っ人外国人のたま遊びを眺めることよりも大切なことがないのか?君たちには。

 

テレビなんて売っちまえ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インターネットやめろ、書店へ行こう

インターネットはくだらないからもうやめた方がいい。資本主義に汚染されきっているからだ。コンテンツは無料だが質において低劣なものばかり。コンテンツが無料なのは製作者が親切だからではなく粗製濫造されたコンテンツから広告収入を得られるビジネスモデルが確立されているからに過ぎない。受け手が好みそうなコンテンツをアルゴリズムで予測して囲い込もうとしてくるのも鬱陶しい。なにかを検索して出てくる結果も検索エンジンを運営している企業が最も広告収入を得られるように最適化されているはずだからグーグルやヤホーの思惑の外に出ることができない。そもそもこんなことを書いているこの記事自体がくだらない。インターネットは最低のメディアだ?!

 

というわけでインターネットのしょうもなさが加速するのに比例して書店に行くことの重要性が相対的に増してきている。。。的なクリシェが身に染みるようになってきました。wikipediaに書いてある内容にBGMをつけただけのごみみたいなショート動画をみてしまった後は特にそう思います。

書店のインターネットに対する優位性はまず質の点においていえます。本を出版するハードルはネットに何かを発表するのにくらべてはるかに高い。たとえば”まつたけ大王”というyoutubeチャンネルがあります。

www.youtube.com

↑このような動画をuploadしています。救いようがありませんね?

彼のコンテンツの質はお世辞にも高いとはいえない。が、コンテンツを全世界に発信することは簡単にできてしまう。本を出版する場合そうはいきません。一定以上の質があるとみなされない限り世間に発表することすらできないからです※中田敦彦キングコング西野のような人の本が出版され、広く世間に受け入れられているらしい状況を鑑みると以上の議論の説得力がなくなってしまいそうですが例外ということで無視してください。

また先述したようにインターネットはアルゴリズムで消費者を囲い込もうとしますが、書店はそのような弊からは相対的に自由です。自分が想像もしなかった訳のわからない本と遭遇できる余地がある。

 

そういうわけで書店にいって何冊か本を買ってみました。

斎藤幸平:大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝

中井久夫:天才の病理学

マルティンブーバー:我と汝

 

休日に読もうとしましたが読む気が起きないのでまだ読んでいません。で、やったことはapexのプレイ動画とエロ動画鑑賞。

もう、ふたたびお目にかかりません。

 

質問箱やってる人、全員ばかです。


質問箱というTwitterと紐づけられるサービスがある。その名のとおり、質問者が匿名で質問し、その質問に回答者が回答できるという単純明快なシステムのサービスである。筆者は2年近くこの質問箱を利用し千件以上の質問に回答してきたが故あって最近その利用を止めることにした。いま思うと質問箱を利用するのは不毛な時間だったと思う。というわけで質問箱に費やした時間を単に不毛なだけのものにしないために質問箱とはなんだったのか本稿で総括したい。

 
質問箱とはなんだったのか?という問いに対して、精神療法のようなものだと、ひとまず答えられると思う。
精神分析の成り立ちに影響を与えた出来事としてアンナ・Oの症例はよく知られる。器質的な異常は無いにも関わらず、さまざまなヒステリーの発作ーー幻覚が見える、水が飲めないなどーーに苦しめられていた女性が、症状の原因と思われる過去の体験を治療者に語ることで寛解したというケースである。ここでは諸々の症状が言語の代替物として表されており、それを実際に言語化することで寛解に至っている。またユング派の箱庭療法も自己を表現することが治癒効果をもたらすという点で共通している。実際、ユング自身も中年期に精神的な危機に陥った際、海岸での砂遊びによって精神の安定を図っていたという。"バーチャル版箱庭療法"とでもいうべきどうぶつの森シリーズを一定時間以上プレイすることで幸福度が上がるという研究結果もあるらしい。カール・ロジャースのクライアント中心療法の存在も自己表現に治癒効果があるという根拠のひとつになる。『家着いていっていいですか』という番組も心理療法みたいなものである。『昔からこの番組に出たかった』と番組スタッフに自ら取材されにいく一般人がいることがそれを証拠だてている。ちなみに番組プロデューサーは現代の"遠野物語自然主義"としてこの番組を企画したというがむしろ田山花袋の蒲団ではないか?当人らが自然主義だと思っていても多分に脚色され美化され"自然"は跡形もなく消え去ってしまっているのではないかと思う。
すこし脱線したところもあるが、以上のように自らの心の内容を自覚することはなにやらよいことらしい。なるほど、もし自分というものが存在しないとしたらそれはおそろしいことのような気がする。だから自分はここにいる、ということを確かめるために必死に他人という鏡を覗きこむのかもしれない。自分探しという言葉があるが暗に、本当の自分など存在しないと皆が気づいている。
人間には質問箱的なもの=自分を浮き彫りにするための他者(鏡)を求める性向があるということを述べてきた。しかしここで疑問が生まれる。いままで書いたようなことを自覚しながら質問箱を続けるのはとても馬鹿馬鹿しいことではないのかと。そういう次第で質問箱はやめたのだった(最初からわかっていたといえばわかっていたが、やめるのは勿体無い気がして続けていた。しかし匿名なのをいいことになりすましとかするやつが出てきてだるくなったのがとどめになった。あと回答がTwitterに自動送信されたりされなかったりするバグ?が全然なおる気配がなかったのもしょうもない。代わりにdiscordの部屋を開設したが、非匿名ということもあり使用感が全く異なるため一日に数十件も質問がくるようなことは無くなった。無論それで構わない)
 
最後に 質問箱をやるやつは馬鹿だと書いたが、この考えを徹底すると人と会話するのもなにもかも無意味になるのでこんな記事は理屈ばかのたわごと、極論と考えて鵜呑みにしないように。
 
 
 
 
 
 

『廻るピングドラム』をみる ”バトロワ物”の批判的アップデート

 
この記事では『廻るピングドラム』(以下『ピンドラ』)というアニメについて書きます。ちなみに私は映画版および幾原邦彦の他作品は未視聴です。
タイトルの批判という語は柄谷行人が言う意味での批判です。すなわち相手を論難してやっつける、という意味の批判ではなく吟味するという意味です。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の"批判"です。
本作が宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』(以下『夜』)の変奏を意図して作られたことはよく知られます。実際、登場人物の名前のほとんどが『夜』の登場人物名に由来していますし、1話から『夜』の解釈について語りあうモブが登場したりします。
『夜』は自己犠牲の大切さを説いた作品だとしばしばいわれます。伝え聞く賢治の生涯を知っていると、それはそれで間違ってはいないのだろうと思います。しかし、この小説が原罪譚(オリジナルシン)でもあるという論点を見落とすと片手落ちになるでしょう。
原罪譚としての『夜』については社会学者の宮台真司が以下の講演、書籍で展開した論が参考になります。
 
・講演を文章化したもの:『正しさ』の不可能性と現代宗教
以上の論を知っているか知らないかで『ピンドラ』という作品の理解度がかなり違ってくると思うので、重要そうなところを抜粋・要約します。
 
 
レジュメ
旧約聖書の大きな柱は二つ=創生譚および原罪譚
 
・創生譚は超越神が世界を創造したという話=神がなした区別によって『世界』ができた=人間は『世界』を創れない。人間のなす区別は神のなす区別とは違って『世界』のなりたちに関わるものではない。
 
・原罪譚は人のなす区別に言及する。蛇の誘惑で『知恵の実』を食べてしまって以降、人はあたかも神のように善悪の区別をするようになるが人の区別は神のそれと違い必ず間違う。にもかかわらず人は区別なくして生きることができない=原罪。ここで重要なポイントは人のなす区別は可謬的-間違えることもある-ではなく必謬的-必ず間違う!-という点。
 
・なぜ人のなす区別は必ず間違うか→a『境界設定の恣意性』+b『因果理解の恣意性』によって※言葉をきいただけでは理解不能のはずなので以下でそれぞれ具体例を説明。
a『境界設定の恣意性』 恣意性とはどうとでも区別できるのにそう区別すること。例:『我々の平等』を掲げる場合、『我々』の範囲はどこまでなのか。電脳化、擬体化した人間も含むのか?遺伝子操作で人間化した動物は?クローン技術で量産化された人間は?...etc。虹を何色に分節するかという問題にも言える(欧米:6色/アジア:7色/アフリカの一部部族:100色)
 
b『因果理解の恣意性』 無限に広がる因果の中から、人は恣意的に一部を切り取り『あれはよかった』『これは悪かった』と思いがちだが、『世の摂理は人知を越える』人知を超えた時間のなかで、善は悪を産み、悪は善を産む。例:米国のオバマ大統領が就任したばかりです--※まつたけ注:この文章は『日本の難点』から抜粋(2009/4/15上梓)--オバマは、末代まで語られるような善政を敷くかもしれない。しかしそのオバマはブッシュ前大統領の悪政なくしては誕生し得なかった大統領。そのブッシュ・ネオコン政権も悪意というよりむしろ善意(正義の貫徹)で失敗をもたらした。中国文化の影響を受けた場所には『人間万事塞翁が馬』という言葉がある。日本でも『終わりよければすべてよし』という言葉があるが『塞翁が馬』の話には原理的には終わりがなく『終わり良ければ』にしてもどの時点が『終わり』なのか定かでない。
どうせ間違うことが確実であるのなら、あとは野となれ山となれ、というふうに考えたくもなるがそれもまた人知であり、人のなす区別。もう自分は区別しないと決意することですら、区別と非区別の区別。すなわち『するも選択、せざるも選択』は、原理の次元では全てについて回る。『するも選択、せざるも選択』に気づいた再起的(反省的な)人間がどのように前に進めるのか、進んだら良いのか。ユダヤ教キリスト教イスラム教もそうした探究のバリエーションだと見做せる。
アルジェリア出身のユダヤデリダの『脱構築』概念は、創生譚と原罪譚という旧約聖書の枠組みを翻案したもの。構築あるいは人のなす区別は必ず間違っているのに回避できない。まさに『不可能なのに不可避』。だから区別をなしつつ、区別を信じずに前に進め!それが脱構築の概念。
 
宮沢賢治は田中智学の国柱会の信者だった→国柱会{・天皇法華経に改宗させて宗教的世直しの手段として使おうとしていた(『侵略を通じた折伏』というプラン)・『八鉱一宇』のスローガンを掲げ大東亜戦争の思想的バックボーンとなった。}→極めて危険。宗教的世直しには犠牲が付き物だが(リグレット=慚愧の念を伴う)、世直し実現の暁には贖われるというロジックで正当化される。しかしそれは上で説明した『因果理解の恣意性』を踏まえると末代まで勘違いとして語られる可能性をもつ。かといって世直しではなく霊的救済の役割のみに甘んじるのも許されない=『宗教的世直しの不可能性と不可避性』という問題が浮上する。
 
・ジョバンニがカンパネルラに対して抱く深いリグレット:ジョバンニがカンパネルラの溺死に遭遇する前、二人は本当の友達ではなかったことが明示される(ザネリに囃されるジョバンニをカンパネルラは見てみぬフリをする)またジョバンニとカンパネルラの境遇は対照的である(ジョバンニ:病気の母親と二人ぐらしで活字拾いをして生計を立てる/カンパネルラ:父親が書斎に立派な本を構える学者でカンパネルラ自身背が高い≒育ちがいい)→階級的落差が明示されている。物語全体に漂うジョバンニのリグレットは、階級的殺害へのリグレットの暗喩だと読める、賢治も信仰する。法華経の開祖日蓮が、宗教的世直しの邪魔立てをする念仏宗教(真宗)の僧侶殺害を煽った事実と併せると、世直しをめぐるリグレットが前景化する。
 
・賢治にはリグレット(慚愧の念)なき世直しがありえないことへの覚悟があった=慚愧の念を書いた世直しを傲慢として却る態度。それは『夜』に繰り返し登場する『まことのみんなの幸』『ほんたうの幸』『蠍座のエピソード』を通じて全き不可能性として暗喩されると同時に、不可能と知りつつ準じる態度が暗喩的に推奨される。
 
・『銀河鉄道の夜』』には初期型と後期型がある→最も人口に膾炙しているのは後期型(ジョバンニとカンパネルラが銀河鉄道の旅をしたあとにカンパネルラの溺死が判明する)しかし初期型ではその順番が逆になっている=ジョバンニによるカンパネルラの階級的殺害というニュアンスがより深くなる。ゆえに宮台氏は初期型が正しいと推測する。
 
-------引用、要約終わり-------
 
 
善と悪の決定不可能性。それでも何かを決断するときに不可避的に伴うリグレット、という命題を踏まえた上で『銀河鉄道の夜』を読み直すと印象が強くなるところが多々あります。
 
 「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」
 いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、急きこんで云いました。
 (中略)
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。
→ほんとうにいいこと=ザネリを助けて死ぬこと。しかしそれは母親を悲しませる結果になるので、そのことに対するリグレットがある。
 
私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。
→ここでも決断の必要とそのリグレットというテーマが繰り返されています。
 
蠍座の挿話についてですが、他の虫を殺すこと及び自分だけイタチから逃げたことを反省したから星になったと考えるのはやや単純です。
生きるためにほかの虫を食べることの成否は決定不可能です。しかし他の虫をたべることは不可避です。そのことに気づいたから蠍は星になることができたと解釈するとこれまでの論述と整合的です("構築あるいは人のなす区別は必ず間違っているのに回避できない"ということのアナロジーになっている)
また、善と悪の決定不可能性という問題設定は『ピンドラ』でも自覚的に描かれます。
 
・冠葉:妹を救うため企鵝の会で殺人すら含む非合法活動に加担する。序盤から、ピングドラムを探すため苹果の家探しに踏み切るなど目的のためには手段を選ばない姿勢が強調されている。
余談ですが"企鵝の会"という名前は”国柱会”がモデルになっている可能性があると思います※〇〇連合でも〇〇アソシエーションでもよかっただろうが、わざわざ〇〇会という名前にしているため。
・苹果:運命日記を現実のものにするため多蕗をストーキング。
・真砂子/ゆり:マリオを救うため、桃香をとりもどすため、苹果から運命日記を奪おうとする。
・剣山:95年の事件を起こし、高倉家は一家離散することになった。
 
各人、自身の正義に基づいて行動しますが、それが他害をもたらし得るという点で共通します。これはオウム真理教にも同じことが言えます。オウムが設立した真理党オウム真理教の教義に基づく世界の救済を目標としていました。無論、麻原彰晃は権力欲以外に何も持たなかったでしょうが、地下鉄サリン事件をはじめとする一連の凶悪事件に関与した信者たちは本気で"世界の救済"を志向していたようです※組織内での立身出世も。
サリン開発の担当者として死刑になった土谷正実の『正実ノート』は以下のような内容でした
 
ノートはまず、麻原の裁判の過程で超能力の実在が証明され、日本社会が『一億総AUM』化へ向かうと予測する。『1995年には国家の力をしのぐほど』になり、96-98年には実質的にオウムが日本の国家にとって変わる。その一方で、オウムは『世界最高宗教』を目指し、90年半ば90年代末、2030年頃の三度にわたり、エルサレムに侵攻、イスラム教との宗教戦争を行う。
土谷はこの宗教戦争で大活躍する。『尊師』とともにとらえられるが、オウムが群を率いて救出に。その戦闘の際、土谷は『尊師を守るために2,3人殴り殺す』活躍をする。そして3度目のエルサレム侵攻で土谷は、『尊師』とともに神殿を築く。しかし、エルサレム郊外で『尊師入滅』。なぜか土屋は、その教祖の死に間に合わない。麻原は『土屋はどこだ』と叫びながら死に、その直後にハルマゲドンが始まる。弟子の多くは次々と死ぬが、土屋は92歳まで生きて、『千年王国の土台を築き上げる』が、最後は『異宗教とor内部分裂により』殉死する。
何やら,SFアニメかテレビゲームのストーリーの概略のようだ。
 
ここまでの議論は『ピンドラ』という作品をかなりのところ精確に説明しているのではないかと思います。とくに『因果理解の恣意性』というテーゼが重要です。インタビューで幾原邦彦は『ピンドラ』を、”親を選べなかった子供たちの物語”だと語っています。生物学的な親にしろ、そうでないにしろ、原理的に親というものは選ぶことができません。その理由は生物学的な親についてはいうまでもありませんが、例えば里親を選べる状況にあったとしても、里親が必要な年齢なら、その里親が良い里親か判断する能力をもちません※そもそも判断が正しいかどうかは『因果理解の恣意性』により全てが終わってから遡って判断するしかありません。ゆえに"親"とは”運命”という語の言い換えだとみなすことができます(親が子に与える遺伝的な影響は研究により次々と明らかになっており、親ガチャという言葉もあるくらいです。)。
運命との対峙というテーマは冒頭から明示されています。『僕は運命って言葉が嫌いだ(晶馬)』という独白から本作は始まり、次回予告で『あたしは運命って言葉が好き(苹果)』と続きます。
ここでは両者とも運命の奴隷だという点に注意が必要です。晶馬は、全てが運命により規定されているとしたら生きる意味などあるのかと問う。これは典型的なニヒリズムです。一方、反対に苹果はニーチェの超人よろしく運命を肯定するのかと思いきや、彼女のいう運命は運命日記の記述をそのままなぞることでした。運命に能動的に働きかけないという意味で、これもまた形を変えたニヒリズムです。
"親"=”運命”であり、それに対峙することが善なのか悪なのかも原理的に区別することができない(何度もいうように『因果理解の恣意性』によって)。それでもなにかを選択する(運命を乗り換える呪文(ピングドラム)を使う)というのが最終話で描かれた展開です。
 
運命を乗り換えた結果、陽毬と晶馬/冠葉が兄妹でない時空に分岐しました。しかしぬいぐるみの中の手紙によって彼らが兄妹であったことが暗示される、すなわち二つの世界が連続性を持っていることが暗示され本作は終わりを迎えます。
これは以下のように言い換えることができます。
善と悪の決定不可能性のなか、なにかを選択し運命を書き換える(なにかを決断する)。その際、運命を書き換えるということが、あり得べき新世界を創造するというかたちで表象される、と。
”運命を書き換えるということが、あり得べき新世界を創造するというかたちで表象される”と記しましたが、『ピンドラ』と全く同じことをしたフィクション作品があります。『仮面ライダー龍騎』という特撮です。
結末が同じ作品を挙げることで上述したことの説得力が増すでしょう。
 
仮面ライダー龍騎』はいわゆる"バトロワ物"の中でも有名な作品だと思いますが、一応あらすじを説明します。
神崎士郎という男には妹がいたが幼い頃に妹が死ぬ→妹は超常的な力で蘇生するが20歳で死ぬ運命を背負う→神崎士郎は妹を延命させるためにライダーバトルのシステムを作成。これは13人の"仮面ライダー"で行われる殺し合いで蠱毒のようなもの。神崎が最後まで勝ち残り"永遠の命"を手に入れ、妹を延命させるという計画。神崎以外のライダーは各々切実な願いを持っており、勝ち残れば願いを叶えられると神崎に言われ殺し合いに参加するが、それは大嘘であり完全な出来レース→神崎は時間を巻き戻す能力を持っているので自分が勝つまで何度もライダーバトルをくり返している→しかし何度繰り返しても妹を延命できない(犠牲の上で延命させられることを妹に拒否されたり、時間軸によって理由はさまざま)→結局神崎は妹の延命を諦め、結果として"ライダーバトルの存在しない世界”が再構築される~fin~
 
龍騎』においても正義は相対的なものとして扱われます。そして戦う=他のライダーを殺すこと(戦わないことを含めて)を決断させられることになります。
 
最終的に、神崎士郎は主人公の一人(蓮)に倒され、結果として"ライダーバトルの存在しない世界”が再構築されます。
決断の果てに運命が変えられる(あり得べき世界が創造されるというかたちで表象される)という構造は『ピンドラ』とまったく同じです。
また改変前後の二つの世界が連続性を持っていることが暗示される点も共通しています。そうしなければ運命を変えるために何かを決断したということの意味がなくなるからでしょう
 

改変後の世界で初対面にも関わらず因縁を感じる主人公ふたり  "仮面ライダー龍騎 最終話"
 
龍騎は』2002年の作品ですが2011年の『ピンドラ』の論点を先取りしていました。"ループ物"としてもかなり早い時期に放映された作品なのでその先駆性には改めて驚かされるものがあります。
他方『ピンドラ』は善と悪の決定不可能性=因果理解の恣意性という問題設定にたいして極めて自覚的な作品でした。それは『銀河鉄道の夜』を参照していることからも明らかです。
 
 

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”RRR”の感想

話題になっていたRRRを映画館に見に行ってきました。映画館にいくのはおそらく5年以上ぶりです。僕の質問箱に数年にわたって質問を送り続けてくれるやばい人がいるのですが、その人が1000円分のアマギフをやるから映画を見てレビューしてくれというので見に行くことにしました(どんだけ見せたいんだよ・・・と軽く呆れもしますが)。茶化してるだけだと思っていたので、コードいれたら本当に1000円分チャージされた時は感動しましたねぇ。
 
この映画、かなり面白いと話題になっていたので僕も”ナートゥ”のキレキレの踊りだけは知っていましたが、それ以外の情報はない状態での鑑賞となりました。結論からいうとこの映画はおもしろいです。”ナートゥ”の陽気さからは想像できないほど血生臭い内容でしたが。3時間が長く感じない程度にはおもしろかったです。
 
この映画の舞台はイギリス植民地時代のインドです。
美しい歌声を持つがゆえに白人に強奪されてしまった妹を救い出そうとする”ビーム”(通称:羊飼い)。羊飼いを見つけ出し、イギリスの警察で出世することで多くの武器を手に入れインド人を蜂起させることを目的とする"ラーマ"。二人の主人公がいます。
両者ともイギリスにたいしては恨み骨髄ですが、目的は異なります。それゆえ"敵の敵は味方"ということにはならず、むしろ敵対することになってしまう、という一筋縄ではいかないシナリオになっています。
二人は最初それぞれの目的を果たすために生活していましたが、ある日、少年が鉄道事故に巻き込まれてしまいます。それをツッコミどころしかないコンビネーションで救出し、それがきっかけで二人の主人公は親友となります。
しかしビームが羊飼いだと知ったラーマは葛藤の末にビームを捕らえます。妹を救出するためにイギリス人を殺しまくっていたビームは処刑される前の余興として跪いて許しをこうまで鞭打ちたれることになりました。鞭を振るうのは親友だったラーマです。かなり痛々しい場面なのですが、インド映画の必要ノルマといわんばかりに、なぜか鞭打たれながらもラーマは歌い始めます。そして意地でも跪かないんですね。結果的にそれが聴衆の心を動かしたのでしょう。暴動が起こり晒し刑はお開きになります。
で、ラーマですが、羊飼いを捕らえたことで当然出世しており、武器庫番をする権限も手にいれました。しかし、手に入れた武器をイギリスへの反乱分子に行き渡らせるという当初の目的を達せられる。。という直前で処刑される予定のビームを助ける方針に変更します。ビームが不屈の信念で聴衆の心を動かすのを目撃し、武器になるのは銃だけでないと悟ったからです。唐突にも思える歌にも作劇上の理由があったという意味で、なにかあればすぐ歌う(と思われがち)なインド映画に対する一種の批評性を見出せないこともありません。
結局ラーマはビームとその妹を逃亡させることに成功しますがそれが原因で逮捕され、裏切り者の汚名も晴れないままという踏んだり蹴ったりな状態に陥ります。
ここからがクライマックスです。ビームは逃亡生活の最中ラーマの婚約者と偶然(都合良すぎぃ!)出会い、真実を知りビームを助け出し二人で共闘してイギリス人を殺しまくり、故郷に戻り大団円を迎える。。。という結末でした
 
 
この映画に関して少しひっかかった点がありました。一つは非暴力・不服従の路線で行くのかな、と思った全然そんなことはなくイギリス人を殺しまくって決着をつけたこと。インドはガンジーの唱える非暴力・不服従の思想で独立を果たした国ですから、これはある意味で自国の歴史を否定するようなシナリオです。もう一つはなぜ今になって植民地時代のインドが舞台なのか、ということです。が、これらの疑問は今なお続く帝国主義に対するアンチテーゼと考えればわかりやすいかと思います。
 
哲学者のヘーゲルは歴史は弁証法的に発展していくと考えました。いまは良くなくても少しづつ良くなっていくだろう、という程度の意味です。これを理性の狡知といったりします。ヘーゲルにとっては戦争も弁証法のプロセスに過ぎません。ヘーゲルがナポレオンをみて『絶対精神が馬に乗っているのを見ました』と感想を述べたのはそのような文脈においてです。
以上の議論を踏まえて政治学者のフランシス・フクヤマは1989年に歴史の終わりという論文を発表しました。曰く、民主国家が成立し安定が築かれた後は戦争のような歴史的大事件は起こらないだろう。。。
もちろんこれが大嘘だということは歴史が証明しています。イスラム圏と西欧諸国の対立もありますし、現在はロシアとウクライナが派手に戦争をしています。
この映画が作成されたのは2018年11月からで撮影が終了したのは2021年8月とされています(コロナの影響で公開が延期されていたらしい)この時点ではロシアのウクライナ侵攻は始まっていませんが、『歴史の終わり』が言われるようになってからもアメリカのイラク侵攻があったりしたことを考えると反帝国主義の意図を持って映画が作られたとしてもおかしくはありません。実際にロシア・ウクライナで戦争が行われている今、帝国主義にたいして徹底抗戦するという内容の本作がアクチュアリティを持ち得たことが世界的なヒットにつながったのかもしれません。
まあ人類を抹殺できる程度の核がこの世に存在することを考えるとやられたらやりかえすというやり方は間違ってると個人的には思いますが。。。娯楽なのでそこまで考えてもしょうがないです。非暴力だけでは映画にならない。
 
映画とは全然関係ない話
この映画がやってる映画館は行ったことないところにあったので原付に乗ってスマホで地図を見ながら行ったんです。
で、スマホ取り出して地図見ようとしたらスマホがない。
来た道もどってなんとか発見できましたが表も裏も割れてしまいました。最悪としか言いようがありません。表面と裏のカメラは治せましたが13000円かかりました。裏面はパーツがないのでバキバキのまま。
不運はこれだけではありません。帰るため原付に乗ろうと思ったらシートにタバコを押し付けられた跡が。。本当に喫煙者はクズですね。。。苦しめて殺したい。器物損壊で警察に被害届をだしました。刑事事件なので結構真摯に対応していただきました。現場にわざわざ戻って写真撮ったりね。まあ犯人見つからねーだろうけど。。。本当死ね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

チェンソーマンの感想

漫画のなかにはジャンプ的としか言いようのないものがありますが、そういう漫画は個人的には好みません

 

だからONE PIECEHUNTER×HUNTERのように隙あらばぺらぺらと能力の説明を垂れ流し、世界観やキャラクターの設定を羅列するような漫画ではないチェンソーマンは良い意味でジャンプらしくなく最近読んだ漫画の中では一番おもしろいと思いました。

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正義マンは必ず勝つ! 吉野家炎上 生娘 シャブ漬け

吉野家の役員が早稲田大学マーケティング講座で『生娘をシャブ漬けに戦略』と発言して炎上している。

 

大前提としてこの発言は冗談だとしても全くおもしろくない。会場では笑いが起きていたらしいが、まあ愛想笑いだろう。

 

だが、この発言は若い女性を狙ったマーケティング施策を誇張した冗談に過ぎず、「炎上することくらい解れよ」とは思うが、実際に炎上することには理不尽を感じざるを得ない質の騒動だと思う。

 

この発言を『告発』した学生は『吉野家の役員がこんなに品のない発言をしましたよ!』と世に訴えることでなんらかの『正義』が実現されると信じているのかもしれない。しかし、それによって実現されるのは、せいぜい品のないことを言わないようにするという『空気』が醸成されるという程度のことである。『失言』した吉野家の役員が女性蔑視の意図を持ってこの発言をしたかは知らないが、よほどのバカでない限り今回の炎上を教訓にして公の場でこの手の発言はしなくなるだろう。だが、ただそれだけのことでしかない。極端な例えだが、裏では本当に『生娘をシャブ漬けに』して金を儲けているような奴かもしれない。だとしたらこんな表面的な炎上では実質的には何も変わらない。

 

もっと品のない例えをしてみよう。人前でま○こと叫ぶ人間がいたらキチガイ扱いされる。しかし実際にま○こと口にはしなくても世の大半の男はま○このことばかり考えているしコンドームは売れ続ける。風俗業は儲かり続ける。

 

まとめ

こういう問題ははっきり言って答えがない。「失言」を「告発」した学生が正しいのかもしれない。だからこんなことでレスバトルを始めた時点で負けである。しかし今の世の中このような理不尽な揚げ足取りが多すぎる。だからつい負けてしまった。

エクソシストを見た

ひさびさにきれてる

 

エクソシスト視聴完了したんだが、この映画はヴァージョンがふたつあるらしく、俺が見たやつは階段をブリッジしながら駆け下りるあの有名なシーンがなかった。

 

あのシーンのためだけに視聴したのに。。。

 

ざっけんな。

西村賢太の訃報

作家の西村賢太が亡くなったらしい。

 

大塚英志がなんの本でか忘れたが風俗通いを公言するだけで無頼を気取れる程度に「文学」は健全化している、というようなことを書いていて同感した覚えがある。

風俗行くだけで無頼になるなら私も無頼に分類されるだろうから。。

 

ただ、そういう「文学」に対するパブリック・イメージをうまく利用した世故に長けただけの人間ではないかという冷ややかな印象を持ちながら読んだ苦役列車は結構面白かった記憶がある。

 

 

東山動物園にいってきた

園内を歩いていると、女が、大人が動物園に来て楽しいものかね、というようなことを言っていた。

 

動物園は楽しい。日常ではまず目にすることのない大きさの動物がいて遠近感が狂うので楽しい。かばなどを実際に見ると、今までに何度か見たことがあっても、その巨大さへの新鮮なおどろきがある。

 

かばの写真などネットでいくらでも見ることができるがデータ上のかばと実際に見るそれは全然違うのであって、モニターでは決して得られない感覚を数百円足らずで味わうことができるのだから悪くない。

 

だから、園内で400円で売られている高級アイスにMOW4個分の価値がなくても文句を言ってはいけない

二郎系を食べに行った

今日は二郎系に行ってみた。

 

家系の方が断然よい。

 

二郎のスープは特徴がなさすぎる。店に行かなければ体験できないような味ではない。いくらでも他のスープと換えが効くような気がする。もやしが大量に入っているのも許せない。水分が多いのでスープの味がにごるしケチくさい。そもそも、もやしって、うまいか?

 

やはり家系は素晴らしい。もう家系にしか行かないことにする。

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に 感想

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本作はバブみを感じてオギャりたいと駄々をこねる甘ったれ(マダオ)にノンを突きつける話である。と、一言でいえばこうなるだろう。

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