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いろいろメモ

 

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ラカン理論5つのレッスン
 

p31 フロイトによれば人間存在は 常に変わらぬ、しかし決して実現されることのない希求に貫かれています それは絶対的幸福 近親相姦を犯すときに感じられるであろうと仮定される絶対的な性的快感を含む様々な形態をとって現れる幸福という不可能な目標に到達したいという希求なのです 欲望と呼ばれるこの希求 体の性感帯に生まれるこの情熱は 苦痛な心的緊張状態を生み出します この緊張は欲望の情熱を抑圧がせき止めればせき止めるほど強くなる緊張です 抑圧が強力であればあるほど 緊張は高まるのです 抑圧の壁の前で欲望の圧力は2つの正反対の道を同時に進まざるを得なくなります 一つは放出の道であり これによってエネルギーは開放され消えていきます もう一方は維持の道であり エネルギーは保存され残留エネルギーとして蓄積されます ですから一部分は抑圧を突き抜けエネルギー消費の形で外部に放出されるのですが、これにさまざまな無意識の現れ(夢や言い間違いや症状)が伴うのです 症状を話題にしたとき述べた鎮静をもたらすのはまさしくこの不完全な放出なのです
 

 

p43
もしあなたが私に神経症患者とは何かとお尋ねになるとしたら、私はそれを、絶対的な形で享受しないために必要ななことを全部置こうなう人だと定義することをためらわないでしょうから。もちろん絶対的なかたちで享受しない方法は、すこしだけ 享受すること つまり自分の欲望を部分的に実現することです 神経症患者が最大の享楽(他者の享楽)を感じるのを避けるために部分的に享受する手段が2つあります。すなわち症状(ファルス的享楽)と幻想(余剰享楽)です 症状と幻想とは 実際法外な享楽に反抗しそれを抑えるために神経症患者が用いる2つの手段なのです そのもっとも良い例がヒステリーです ヒステリー患者とはあらゆる部品で一つの現実 自分自身の現実を作り上げる人 つまり夢にまで見ていた享楽がたえず彼から逃れ去る幻想を作動させる人なのです ラカンが ヒステリー的欲望ひいてはあらゆる欲望を 根本的に非充足のものと特徴づけたのはそのためです。 中略 ようするに他者の享楽(それは夢見られている享楽なのですが)に到達しないために一番良いのは たえず欲望し、代理物や隠蔽記憶 症状や幻想で満足することなのです。
 
ラカンの有名なテーゼ「欲望に関して譲歩することなかれ」についての説明です。(まつたけ)
 
p47
欲望がけっして満たされることがないのは、ただただ私達が語るという理由からなのです。私達が語るものである限り、 私達が象徴世界にはまりこんでいる限りすべてが無数の意味を持つこの世界に属している限り 私達は欲望の完全な充足に到達することはけっしてないのです。
 
☆ある語Aの意味を説明するには語Bを用いねばならず、Bを説明するにはCを使わなければならず。。という作用が言語の仕様においては、無限に反復されてしまいます(まつたけ)
 
新しいヘーゲル
 

p40
その雑駁さ(精神現象学の)はヘーゲルの著作群の中においても異彩をはなつが、西洋近代の哲学史の中においても、容易に類例を求めがたい。多少とも近いものとして、たとえばデカルトの「方法序説」、キルケゴールの「あれかこれか」、ニーチェの「ツァラトゥストゥらはこういった」、サルトルの「聖ジュネ」などが思い浮かぶが、しかし、そのどれ一つをとっても、その横に「精神現象学」を置くと、やはり同質の面よりも異質の面が強く浮かび上がるのだ。 それらよりもう少し、「精神現象学」に近いものとして、私はゲーテの「ヴィルヘルム・マイスター」をあげたい。
 
☆「ヴィルヘルム・マイスター」は教養小説(成長物語)の源流と呼ばれる作品であり、「精神現象学」も精神の通時的な発展を記したという点で教養小説的ですが、そのような目的論的な世界観は、のちに多くの哲学者に批判されるところとなりました。(まつたけ)
 
p175 
「あれかこれか」ーーヘーゲルなら「あれもこれも」だ。そうやって対立するものが対立しつつ一つの和解へともたらされることに、キルケゴールは我慢ならなかった。対立する一方を否定し、一方のみを選び取るという偏頗な選択こそ、神ならぬ人間の、おのれの分に誠実なふるまいだとキルケゴールは考えた。
 
キルケゴールの哲学は、実存主義構造主義を経由してポスト構造主義までつながる射程の広いものです。その点については「わかりたいあなたのための現代思想・入門」という本が参考になります。(まつたけ)
 
ラカン 哲学空間のエクソダス

p13 パラノイアを特徴づける症状である妄想(例えば被害妄想)のなかで、患者は他者に特定の意図(例えば悪意)があることを、つまり特定の望むことがあることを訂正不能なほどの強さで確信している。そしてそうした他者の望むことの想定がもつ必然性は、それによって患者が、自分の生育史上の様々な(しばしば受け入れがたい)出来事を理解できるようになるという点に求められていた。 ラカンはこのメカニズムを、人間の認識全体へと一般化する。これがラカンの言う「パラノイア的認識の理論」であり。ある意味で「主体は世界が理解可能である方に賭ける」と主張しているのに等しい。 中略 他者は知覚に与えられるのではない。それはむしろ認識の可能性の根拠として要請されるのだ。
 
p33 
すなわち、われわれは、誘引となる事象の回想を完全な明白さで呼び起こして、それによってこれに随伴していた感動をも呼び覚ますことに成功し、そのうえで患者が自らその事象をできるだけ精細に述べてその感動に言葉を与えるようにすれば個々のヒステリー症状はたちどころに消滅し二度とおこるものではない、ということを発見したのであった(フロイト
 
☆ヒステリー症状(コップから水を飲めなくなる、など)は言語化できないものの表象として現れる。それを言語化してやれば症状は身体を通して現れる必要もなくなる、というかんじだ(まつたけ)
 
 
 

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