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家、ついて行ってイイですか?という番組のエセサイコセラピー的側面 2つの自然主義


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家、ついて行ってイイですか?という番組の教養小説
 
家、ついて行ってイイですか?(以下「家」)という番組にある種の興味を覚えるのは、そのエセサイコセラピー性に拠るのかもしれません。インチキ教養小説性と言い換えてもいいでしょう。
 
教養小説、つまり登場人物が成長する物語、自己実現の物語ということ。一番わかりやすい例として「千と千尋の神隠し」(以下「神隠し」)という映画を挙げられます。 どうでもいいことですが大塚英志という評論家はバカでもわかるから「神隠し」はヒットしたのだと言いました。
 

 

この映画のあらましは以下の通り
 
1 異世界に迷い込んだ主人公が名前を奪われる
2  労働を通して名前を取り戻して異世界から帰還する
 
以上です。
 
労働を通して自分が見いだされるというのはわかりやすいマルクス主義思想の寓意であり、奪われた名前はユング派がいうところのセルフです。湯屋はグレートマザー(すべてを飲み込む母)でありその支配から逃れることが主題になっています。ギリシア神話、エジプト神話、日本神話にもある死と再生の物語のヴァリアントでもあります。(死=異世界に迷い込むこと、再生=日常への帰還)
 
ひとことで言えば「本当の自分」を取り戻すことがこの映画の主題であり、このわかりやすさが大ヒットの要因といえるのですが、「家、ついて行ってイイですか?」という番組も「神隠し」と同じ構造をそなえているといえます。
番組に出演する一般人だけでなく、視聴者側も擬似的な「自己実現」の錯覚をもたらされる点が「神隠し」との相違です。「家」では一般人の自宅が異世界に相当します。出演する一般人は自分語りをすることで自分の輪郭を手に入れ、視聴者は一般人の自宅(異世界)を目の当たりにし自分の輪郭を手に入れる、ということです。
 
「家」はそのへんの一般人に声をかけて交通費をだす代わりに家までついていってその一般人の個人史を聞くという番組です。一見すると、この番組には多種多様な一般人がでてくるように思えますが、実際に番組で見られるのは初対面の人間を家に上がらせて自分語りをしてそれが全国に放映されることに抵抗をもたない(むしろそれに快感を覚える)人だけです。
 
人間は自分が自分であるという自明性の中に安住したがる存在です。これはいくつかの心理療法が教えてくれる知見ですが、なぜそうなのかがわかることは多分ないでしょう。そうなっているからそうなっている、としかいいようのない 、答えを求めるほどさらにその答えが必要になり...というプロセスが無限に反復されてしまう質の問いだからです。この謎が原理的に解明されるかは疑問ですが、少なくとも臨床の場では箱庭療法やクライアント中心療法の効果が認められています。
 
ちなみにこのような自明性が失われるのが大雑把に言えば統合失調症です。自分が自分であるというまとまりが失われるので自分が考えていることが他人の声とし知覚されてしまうのが幻聴として知られる現象です。
 
このように、人間とは自分が自分である、というまとまりを確保したがる存在なのですが、ラカン鏡像段階の理論が教えてくれるように、自分というものが他者を通して見いだされれる想像的なものだという点に注意が必要です。
 
「家」での一般人の自分語りは、それを全国の他者に公開することで自分の輪郭を手に入れようとする欲望の現れのように思えます。このメカニズムは視聴者側にも妥当することであり、一般人の自分語りによって視聴する側の「自分」が照らし出されるという相互性があります。
 
2つの自然主義
 
↓のインタビューによると、家、ついて行ってイイですか?という番組は柳田国男自然主義から着想を得たといいます。
 
「100年後の研究者が平成という時代を知ろうとしたとき、生活スタイルや生き様、人生観は記録に残らない。柳田国男が当時の農村の生活や風習、思考を脚色無く書いた遠野物語のように、当番組は平成版の遠野物語を目指したい」(高橋弘樹プロデューサーのインタビューより)
 
しかし、私見ではこの番組の自然主義は柳田のそれというより田山花袋のそれに近いように思います。
遠野物語には「一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり」という有名な一文があります。例えば柳田国男は弟子を連れてフィールドワークをしていた際、変わらないように見える風景も絶えず移り変わっており、同じ景色が現れることは二度とない、というようなことを語っていたようです。
 
柳田の自然主義が外部に向けられているのに対し、田山花袋は代表作とされる「布団」で、中年小説家の文学少女に対する恋愛感情を書いたのですが、ここでの自然主義は徹底的に内側に向けられています。
柳田は花袋の小説に批判的で、「初めてカメラを手にした人が所構わずシャッターを切るようなものだ」という意味の皮肉をいいました。
 
精神分析においては分析化が、患者自身が意識しないことを言葉にすることを助けることで治療が行われるのですが、「家」において語られるのは出演者が美化し、加工した物語です。これを「自然主義」だといって客観的な記録とするのはどこかズレているような気がします。人はいつの時代も自分のことをむやみにカミングアウトしたがる存在だという証拠にはなるのかもしれませんが。
 
「家」の出演者の自分語りは多分に脚色されたものであり「仮面の告白」に過ぎません。うかつに感情移入してしまうのはあまりにナイーブだといわなければならないでしょう。
 
 
 
 
 

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