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まつたけ大王のブログ

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進撃の巨人と芽むしり仔撃ち カツドンチャンネル オウム MOTHER3


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※記事のタイトルにある諸作品のネタバレあり
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
進撃の巨人は宗教的な漫画である。
哲学者のニーチェは、ソクラテスプラトンの哲学、キリスト教社会主義の理想といったものがすべて、現実の生から目を背けるための「背後世界」(「意味」と言い換えてもいいです)を捏造したとして批判しました。
 
進撃の巨人が宗教的な漫画だという意味は世界観の設定や登場人物の行動指針に「背後世界」や「意味」を前提とし、それを疑わないという点においてです。
 
「世界の意味」
物語の冒頭では人類を守る壁が破壊され、人々は巨人に理不尽に捕食されます。進撃の巨人のヒットと東日本大震災の発生との時期が近いため、この漫画と震災をリンクさせて読んだ読者は多いでしょう。しかし震災の犠牲者が被災したことに理由がない一方(人工地震説を主張する人もいますが...)、「進撃の巨人」では物語が進むにつれて、主人公たちの住む壁の外には他の人類が存在することが判明し、壁が壊されなけらばならなかった「意味」、「世界の真相」、巨人の正体が明らかになります。
 
「生きる意味」を求める登場人物たち。
まとめサイトで「進撃の巨人」のスレをみたときに、「この漫画は様々な人物の思想を書ききっているからすごい」というレスがありました。しかし、この漫画の登場人物の「思想」は、この漫画の設定では仕方ないかもしれませんが、「生きる意味」を求めてやまないという点でみな同じです(エレン、エルヴィン、ジーク、ケニー、etc…)。作者はこのような人物たちを描くときは肯定的な一方、キース教官のような、過去に理想を追い求めていたが挫折した人間や、その他の保守的な人間は否定的に描きます。このような登場人物の描き方は、作者の人生観によるバイアスが多分にかかっているように思います(作者の思想が作品に反映されるのは無論、必然ですが)
 
この漫画ではウォール教という、壁が存在する意味を説く宗教団体が登場するのですが、ウォール教は、宗教団体というものがかなり屈託なくカリカチュアライズされたものとして描かれます。しかし、先に述べたように、この漫画自体が宗教的といっていい特徴をそなえています。
 
大江健三郎:芽むしり仔撃ちと進撃の巨人
「生きる意味」という問題は「私とはなにか」という問題と重なります。明治時代以前にはこのような問題意識は、例外もあったでしょうが、希薄であったと思われます。近代国家の成立以前の共同体は「ムラ」単位の小さなものだったので、そのなかでの自分の役割がわかりやすかったからです。しかし西欧列強から植民地化されることに対抗するため近代化をとげた日本は「国家」や「社会」という概念を持つに至りました。
 
「私」というものは「他者」との関係に規定されます。近代化以前は「ムラ」という具体的な共同体から「私」を照らし出すことができましたが、「国家」や「社会」というものはあまりに抽象的なので、「私」の輪郭が曖昧にならざるを得ません。この問題意識の発生と前後して、言文一致運動が起こり、漱石や鴎外が「私」と「社会」との関係について小説を書きはじめました。このように「私とはなにか」という問題は明治の初め辺りまで遡ることができます。進撃の巨人においては「国家」や「社会」の代わりにより抽象的な「セカイ」がある、という感じですが、この漫画も、概ね明治にまで遡る近代日本の小説と同様の問題意識の上に成立しているといえます。
 ちなみにクローズドな空間からの脱出と個の成立を主題とした作品として大江健三郎の芽むしり仔撃ちという小説が進撃の巨人といくらか共通した点を持ちます。
 
芽むしり仔撃ちのざっくりしたあらすじは以下
・感化院(現在の児童自立支援施設)の少年たちがある村に疎開させられる
疎開先の村で疫病が流行し村人は逃げ出す。感染防止のため少年たちが村に閉じ込められる
・村に残された少年達によって擬似的な共同体が形成される
・村人帰還。村人不在の間少年たちが村の家を荒したことに対し制裁を加える(村に閉じ込めておいたのは村人なのだからかなり理不尽)さらに村人が少年たちを村に閉じ込めたことに関して口外しないことを強要する。
・少年たちの中で、主人公だけが村人から突きつけられた条件を拒否し村を出る。
 
進撃の巨人では壁の外にでたあとに「世界の真相」が明らかとなり主人公たちのなかにナショナリズム(共同体意識)のごときものが成立しますが、芽むしり仔撃ちでは主人公がそのような共同体に内属することを拒否するところで終わっており、そこが決定的な違いになっています。「進撃」において主人公は最終的に自分が生まれ育った島を除いた世界のすべてを滅ぼすことを決めますが(まさに「セカイ系」)、この点で大江は「進撃」のような幼稚な結末を退けるような小説をとっくに書いていた、ということができます。
芽むしり仔撃ちについては大塚英志署:初心者のための「文学」を参照しました。

 
オウム真理教 カツドンチャンネル

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進撃の巨人を立ち読みするカツドンチャンネル
 
オウムの信者は「意味」の欠如に耐えられない人たちでした。彼らのなかに高学歴エリートが多数存在したことはしばしば指摘されますが、バブルの狂騒から取り残され、学歴が良い未来を保証してくれると素朴に信じてしまったエリートほど、現実との落差を耐え難いものとして感じてしまったのでしょう。この不全感が「世界最高宗教」としてのオウムに容易く信者を同化させてしまったのだといえます。ここで想起されるのがカツドンチャンネルというyoutuberです。カツドンチャンネルは最も好きな漫画として進撃の巨人を挙げており、また、生きる意味のようなものを探し求めて「アダルトチルドレン」や「インナーチャイルド理論」のような、ある結果を原因に帰するような理屈に傾倒していました(彼がユング河合隼雄にはまらなかったのは単に知らなかっただけに過ぎないと思います)。このような世界認識の仕方は進撃の巨人という漫画の特徴そのものであり、彼が「進撃」にはまったのは当然だといえます。そういう意味で調査兵団はオウムのようなものだといえるかもしれません。
 
MOTHER3も進撃の巨人とよく似た説話構造をもっているといえます。
 
MOTHER3はざっくりいうとポーキーという人物が世界を滅ぼそうとし、それを主人公が阻止するという話です。ストーリーの終盤、主人公が住んでいたタツマイリ村の住人の記憶が改ざんされていたことが判明します。旧世界を滅ぼしてしまった旧人類がその反省から自分達の記憶を書き換えあたらしい「物語」を生き直すことにした、というのがそのいきさつです。この「世界の真相」が明らかになるタイミングが、ラスボスの「かめんのおとこ」との世界の命運を賭けた最終決戦のほとんど直前だという点は注目されてよいでしょう。「世界の真相」を知ったことで共同体としての自覚が芽生え、その共同体の命運を賭けて最終決戦が起こるという印象があるからです。
これは「進撃」で「壁」の秘密を知った主人公達がそれと同時に壁外人類との戦争を開始したことと相似的な関係にあるといえます。
一方、芽むしり仔撃ちでは村人が去ったあとの村で少年たちが擬似的な共同体を形成しかけますが、結局それは失敗に終わります。この点で「芽むしり仔撃ち」という作品だけが「国家」を偽りの歴史で捏造してしまうことについて相対化し得ているといえます。(この作品の終盤で村人が少年たちを村に閉じ込めたことに関して口外しないことを強要した場面が歴史の捏造に該当します。が、先に述べたように主人公はそれを拒否し村の外に出ていきます)
 
 
 
 
進撃の巨人という漫画は伏線の貼り方、ストリーテリングの巧みさにおいてほとんど並ぶもののない作品という気がします。が、作品の背後にある「思想」に関してはネットにあふれる「ネトウヨ」的な言説の無邪気な「反映」(批評ではなく)としか思えず、仰天するほど安っぽい。サブカルチャーに思想が必要でなくなった現代を「反映」しているという意味で象徴的な漫画だといえます。


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