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いろんなテーゼ その2 ラカンとか


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本の内容を書き写しただけの記事未満のなにか。(本を読まなければならない分5chまとめサイトで記事を作るよりは労力がかかっていると思う。まぁ、まとめサイトのほうがおもしろいけど)
 
 
 
 
ラカン 哲学空間のエクソダス 
 
p38
フロイトの当時のモデルによれば、一般に神経症はさまざまな刺激という形で受け取るエネルギーを運動という形で放出することで、動的平衡を保とうとする。それと相関して、系の内部でのエネルギー水準の上昇は不快として、低下は快として感ぜられるだろう。そして言語は、書字や発話において運動と密接な関係を持っていることから、エネルギーの放出の特権的な経路となってきた。ところがさまざまな理由でこの経路が阻まれると(=言語の不在化)、放出されるべきエネルギーは、別の運動性の経路ーーよりはっきりした運動を引き起こすような経路ーーを通って放出される。これがヒステリーの身体症状である(「転換ヒステリー」)

 

言語化できないものが身体を通して表出されるという精神分析の公理のひとつ。以上のようなメカニズムは不随意的に進行しますが、このように「主体」を超えたところに「主体」に影響を及ぼす系を見出し、デカルト以降の「コギト」の神話を打ち崩したという点にフロイトの偉大さがあります。(まつたけ)
 
p49
反復強迫は快感原則の前史に属する。これがこの論文におけるフロイトの基本的な立場である。刺激は生のままで受け止められるには常に著すぎるので、心的装置にはあらかじめこれに備える仕組み、すなわち刺激の受容が見込まれる部位に予めエネルギーを充当して、そこで生じうる急激なエネルギー水準の変化を回避しようとする感傷的なメカニズムがある。(これは予期される衝撃に大して、身を固くしてこれに備える、といった動作がよりミクロなスケールで成立していると考えていただければよいだろう)この充当は、主観的には不安として感じられるだろう。そしてこれによって十分減殺されたエネルギーについて、その正常な機能、つまり快感原則に基づく機能は保証されている。 
 さて、たまたまこうした準備動作がなされていないまま刺激が受容された場合、(つまり、身近で爆弾が炸裂したりした場合)装置の機能はいったん破綻するが、そのあとの起こりそこねた準備動作を補償しておこなおうとする。不安発作という形で経験される「その機能は快感原則に矛盾することなく、しかもそれからは独立しており、快の獲得や不快の快の企て以上に根源的なものと思われる」
 
p159
ラカンはコギトが見かけほど単純なものではないことを早い時期から指摘し始める。 それが含意する、思考と存在の共起の主張に対して、1957年には「私はわたしの存在しないところで考える。それゆえ、私は、私の考えないところに存在する」という言い方で、むしろそれらの相互排他的な関係が主張される。さらに1961年から62年にかけての「同一化」のセミネールで、彼はコギトが自己言及とそれにともなう無限化をはらむはずのものであり(「我思う、ゆえに我あり」と我思う。この思うわれは最初の我を包摂しつつそれとは異なった我であるはずだ。)
 
※自分が夢の中にいるかもしれないということはいくらでも疑うことができますが、しかし自分が夢の中にいるかもしれないということを疑う「私」の存在は疑いようがない これがデカルトのコギト・エルゴ・スムでありこんなことは誰でも知っていますが、「コギト」が実はそれほど単純ではないということについては柄谷行人のヒューモアとしての唯物論にもおもしろい論考があります。(まつたけ)

 
p169
神は存在するかしないかわからない。しかし、神が存在する方に賭けたほうが結局は有利である。なぜならもし神が本当に存在するのなら、その場合は「無限に幸福な無限の生」を手に入れることになる。もし万一神が存在しなかったとしても、失うのは取るに足らぬ「無に等しい」生に過ぎない。逆に神が存在しない方に賭けたとすればどうか。現実に神が存在するなら、にもかかわらず罪深い障害を送った人は永劫に続く地獄の責め苦を追うだろうし、これは現世の快楽によっていささかなりとも補償されるものではない。もし神が本当に存在しなかったとしても、手に入るのはつかの間の快楽だ。
 
※一見正しいように見えますが、ラカンは、生は「かんたんに手のひらに載せられるようなものではない」「われわれを包み込む、限界のない」ものだと反論します。
 
p216
フロイトはトーテム動物を、原始部族の父、「原父」の代替物であるとしたうえで、次のような過程を考えるえることでこれを説明しようとした。原始部族において、すべての女性は強力な原父の独占するところなっていた。これに不満を抱いた部族の男性構成員は一致団結してこの原父を殺害する。しかし男たちがいわば小・原父として、一旦原父の独占を離れた女性たちを争う中で、部族は決定的な分解の危機に直面する。そこで父殺しをくいた男たちは、自由になった同じ部族の女性の中から自分の相手を探すことを互いに禁じ(近親婚の禁止)、同時にある特定の動物を原父の代替物とみなしこれを部族の守護者とするとともに、周期的にこれを殺害することで繰り返されてはならない出来事を記念するようになった。(トーテム動物を殺して食べる、いわゆる「トーテム饗宴」)
 


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