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『廻るピングドラム』をみる ”バトロワ物”の批判的アップデート


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この記事では『廻るピングドラム』(以下『ピンドラ』)というアニメについて書きます。ちなみに私は映画版および幾原邦彦の他作品は未視聴です。
タイトルの批判という語は柄谷行人が言う意味での批判です。すなわち相手を論難してやっつける、という意味の批判ではなく吟味するという意味です。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の"批判"です。
本作が宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』(以下『夜』)の変奏を意図して作られたことはよく知られます。実際、登場人物の名前のほとんどが『夜』の登場人物名に由来していますし、1話から『夜』の解釈について語りあうモブが登場したりします。
『夜』は自己犠牲の大切さを説いた作品だとしばしばいわれます。伝え聞く賢治の生涯を知っていると、それはそれで間違ってはいないのだろうと思います。しかし、この小説が原罪譚(オリジナルシン)でもあるという論点を見落とすと片手落ちになるでしょう。
原罪譚としての『夜』については社会学者の宮台真司が以下の講演、書籍で展開した論が参考になります。
 
・講演を文章化したもの:『正しさ』の不可能性と現代宗教
以上の論を知っているか知らないかで『ピンドラ』という作品の理解度がかなり違ってくると思うので、重要そうなところを抜粋・要約します。
 
 
レジュメ
旧約聖書の大きな柱は二つ=創生譚および原罪譚
 
・創生譚は超越神が世界を創造したという話=神がなした区別によって『世界』ができた=人間は『世界』を創れない。人間のなす区別は神のなす区別とは違って『世界』のなりたちに関わるものではない。
 
・原罪譚は人のなす区別に言及する。蛇の誘惑で『知恵の実』を食べてしまって以降、人はあたかも神のように善悪の区別をするようになるが人の区別は神のそれと違い必ず間違う。にもかかわらず人は区別なくして生きることができない=原罪。ここで重要なポイントは人のなす区別は可謬的-間違えることもある-ではなく必謬的-必ず間違う!-という点。
 
・なぜ人のなす区別は必ず間違うか→a『境界設定の恣意性』+b『因果理解の恣意性』によって※言葉をきいただけでは理解不能のはずなので以下でそれぞれ具体例を説明。
a『境界設定の恣意性』 恣意性とはどうとでも区別できるのにそう区別すること。例:『我々の平等』を掲げる場合、『我々』の範囲はどこまでなのか。電脳化、擬体化した人間も含むのか?遺伝子操作で人間化した動物は?クローン技術で量産化された人間は?...etc。虹を何色に分節するかという問題にも言える(欧米:6色/アジア:7色/アフリカの一部部族:100色)
 
b『因果理解の恣意性』 無限に広がる因果の中から、人は恣意的に一部を切り取り『あれはよかった』『これは悪かった』と思いがちだが、『世の摂理は人知を越える』人知を超えた時間のなかで、善は悪を産み、悪は善を産む。例:米国のオバマ大統領が就任したばかりです--※まつたけ注:この文章は『日本の難点』から抜粋(2009/4/15上梓)--オバマは、末代まで語られるような善政を敷くかもしれない。しかしそのオバマはブッシュ前大統領の悪政なくしては誕生し得なかった大統領。そのブッシュ・ネオコン政権も悪意というよりむしろ善意(正義の貫徹)で失敗をもたらした。中国文化の影響を受けた場所には『人間万事塞翁が馬』という言葉がある。日本でも『終わりよければすべてよし』という言葉があるが『塞翁が馬』の話には原理的には終わりがなく『終わり良ければ』にしてもどの時点が『終わり』なのか定かでない。
どうせ間違うことが確実であるのなら、あとは野となれ山となれ、というふうに考えたくもなるがそれもまた人知であり、人のなす区別。もう自分は区別しないと決意することですら、区別と非区別の区別。すなわち『するも選択、せざるも選択』は、原理の次元では全てについて回る。『するも選択、せざるも選択』に気づいた再起的(反省的な)人間がどのように前に進めるのか、進んだら良いのか。ユダヤ教キリスト教イスラム教もそうした探究のバリエーションだと見做せる。
アルジェリア出身のユダヤデリダの『脱構築』概念は、創生譚と原罪譚という旧約聖書の枠組みを翻案したもの。構築あるいは人のなす区別は必ず間違っているのに回避できない。まさに『不可能なのに不可避』。だから区別をなしつつ、区別を信じずに前に進め!それが脱構築の概念。
 
宮沢賢治は田中智学の国柱会の信者だった→国柱会{・天皇法華経に改宗させて宗教的世直しの手段として使おうとしていた(『侵略を通じた折伏』というプラン)・『八鉱一宇』のスローガンを掲げ大東亜戦争の思想的バックボーンとなった。}→極めて危険。宗教的世直しには犠牲が付き物だが(リグレット=慚愧の念を伴う)、世直し実現の暁には贖われるというロジックで正当化される。しかしそれは上で説明した『因果理解の恣意性』を踏まえると末代まで勘違いとして語られる可能性をもつ。かといって世直しではなく霊的救済の役割のみに甘んじるのも許されない=『宗教的世直しの不可能性と不可避性』という問題が浮上する。
 
・ジョバンニがカンパネルラに対して抱く深いリグレット:ジョバンニがカンパネルラの溺死に遭遇する前、二人は本当の友達ではなかったことが明示される(ザネリに囃されるジョバンニをカンパネルラは見てみぬフリをする)またジョバンニとカンパネルラの境遇は対照的である(ジョバンニ:病気の母親と二人ぐらしで活字拾いをして生計を立てる/カンパネルラ:父親が書斎に立派な本を構える学者でカンパネルラ自身背が高い≒育ちがいい)→階級的落差が明示されている。物語全体に漂うジョバンニのリグレットは、階級的殺害へのリグレットの暗喩だと読める、賢治も信仰する。法華経の開祖日蓮が、宗教的世直しの邪魔立てをする念仏宗教(真宗)の僧侶殺害を煽った事実と併せると、世直しをめぐるリグレットが前景化する。
 
・賢治にはリグレット(慚愧の念)なき世直しがありえないことへの覚悟があった=慚愧の念を書いた世直しを傲慢として却る態度。それは『夜』に繰り返し登場する『まことのみんなの幸』『ほんたうの幸』『蠍座のエピソード』を通じて全き不可能性として暗喩されると同時に、不可能と知りつつ準じる態度が暗喩的に推奨される。
 
・『銀河鉄道の夜』』には初期型と後期型がある→最も人口に膾炙しているのは後期型(ジョバンニとカンパネルラが銀河鉄道の旅をしたあとにカンパネルラの溺死が判明する)しかし初期型ではその順番が逆になっている=ジョバンニによるカンパネルラの階級的殺害というニュアンスがより深くなる。ゆえに宮台氏は初期型が正しいと推測する。
 
-------引用、要約終わり-------
 
 
善と悪の決定不可能性。それでも何かを決断するときに不可避的に伴うリグレット、という命題を踏まえた上で『銀河鉄道の夜』を読み直すと印象が強くなるところが多々あります。
 
 「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」
 いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、急きこんで云いました。
 (中略)
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。
→ほんとうにいいこと=ザネリを助けて死ぬこと。しかしそれは母親を悲しませる結果になるので、そのことに対するリグレットがある。
 
私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。
→ここでも決断の必要とそのリグレットというテーマが繰り返されています。
 
蠍座の挿話についてですが、他の虫を殺すこと及び自分だけイタチから逃げたことを反省したから星になったと考えるのはやや単純です。
生きるためにほかの虫を食べることの成否は決定不可能です。しかし他の虫をたべることは不可避です。そのことに気づいたから蠍は星になることができたと解釈するとこれまでの論述と整合的です("構築あるいは人のなす区別は必ず間違っているのに回避できない"ということのアナロジーになっている)
また、善と悪の決定不可能性という問題設定は『ピンドラ』でも自覚的に描かれます。
 
・冠葉:妹を救うため企鵝の会で殺人すら含む非合法活動に加担する。序盤から、ピングドラムを探すため苹果の家探しに踏み切るなど目的のためには手段を選ばない姿勢が強調されている。
余談ですが"企鵝の会"という名前は”国柱会”がモデルになっている可能性があると思います※〇〇連合でも〇〇アソシエーションでもよかっただろうが、わざわざ〇〇会という名前にしているため。
・苹果:運命日記を現実のものにするため多蕗をストーキング。
・真砂子/ゆり:マリオを救うため、桃香をとりもどすため、苹果から運命日記を奪おうとする。
・剣山:95年の事件を起こし、高倉家は一家離散することになった。
 
各人、自身の正義に基づいて行動しますが、それが他害をもたらし得るという点で共通します。これはオウム真理教にも同じことが言えます。オウムが設立した真理党オウム真理教の教義に基づく世界の救済を目標としていました。無論、麻原彰晃は権力欲以外に何も持たなかったでしょうが、地下鉄サリン事件をはじめとする一連の凶悪事件に関与した信者たちは本気で"世界の救済"を志向していたようです※組織内での立身出世も。
サリン開発の担当者として死刑になった土谷正実の『正実ノート』は以下のような内容でした
 
ノートはまず、麻原の裁判の過程で超能力の実在が証明され、日本社会が『一億総AUM』化へ向かうと予測する。『1995年には国家の力をしのぐほど』になり、96-98年には実質的にオウムが日本の国家にとって変わる。その一方で、オウムは『世界最高宗教』を目指し、90年半ば90年代末、2030年頃の三度にわたり、エルサレムに侵攻、イスラム教との宗教戦争を行う。
土谷はこの宗教戦争で大活躍する。『尊師』とともにとらえられるが、オウムが群を率いて救出に。その戦闘の際、土谷は『尊師を守るために2,3人殴り殺す』活躍をする。そして3度目のエルサレム侵攻で土谷は、『尊師』とともに神殿を築く。しかし、エルサレム郊外で『尊師入滅』。なぜか土屋は、その教祖の死に間に合わない。麻原は『土屋はどこだ』と叫びながら死に、その直後にハルマゲドンが始まる。弟子の多くは次々と死ぬが、土屋は92歳まで生きて、『千年王国の土台を築き上げる』が、最後は『異宗教とor内部分裂により』殉死する。
何やら,SFアニメかテレビゲームのストーリーの概略のようだ。
 
ここまでの議論は『ピンドラ』という作品をかなりのところ精確に説明しているのではないかと思います。とくに『因果理解の恣意性』というテーゼが重要です。インタビューで幾原邦彦は『ピンドラ』を、”親を選べなかった子供たちの物語”だと語っています。生物学的な親にしろ、そうでないにしろ、原理的に親というものは選ぶことができません。その理由は生物学的な親についてはいうまでもありませんが、例えば里親を選べる状況にあったとしても、里親が必要な年齢なら、その里親が良い里親か判断する能力をもちません※そもそも判断が正しいかどうかは『因果理解の恣意性』により全てが終わってから遡って判断するしかありません。ゆえに"親"とは”運命”という語の言い換えだとみなすことができます(親が子に与える遺伝的な影響は研究により次々と明らかになっており、親ガチャという言葉もあるくらいです。)。
運命との対峙というテーマは冒頭から明示されています。『僕は運命って言葉が嫌いだ(晶馬)』という独白から本作は始まり、次回予告で『あたしは運命って言葉が好き(苹果)』と続きます。
ここでは両者とも運命の奴隷だという点に注意が必要です。晶馬は、全てが運命により規定されているとしたら生きる意味などあるのかと問う。これは典型的なニヒリズムです。一方、反対に苹果はニーチェの超人よろしく運命を肯定するのかと思いきや、彼女のいう運命は運命日記の記述をそのままなぞることでした。運命に能動的に働きかけないという意味で、これもまた形を変えたニヒリズムです。
"親"=”運命”であり、それに対峙することが善なのか悪なのかも原理的に区別することができない(何度もいうように『因果理解の恣意性』によって)。それでもなにかを選択する(運命を乗り換える呪文(ピングドラム)を使う)というのが最終話で描かれた展開です。
 
運命を乗り換えた結果、陽毬と晶馬/冠葉が兄妹でない時空に分岐しました。しかしぬいぐるみの中の手紙によって彼らが兄妹であったことが暗示される、すなわち二つの世界が連続性を持っていることが暗示され本作は終わりを迎えます。
これは以下のように言い換えることができます。
善と悪の決定不可能性のなか、なにかを選択し運命を書き換える(なにかを決断する)。その際、運命を書き換えるということが、あり得べき新世界を創造するというかたちで表象される、と。
”運命を書き換えるということが、あり得べき新世界を創造するというかたちで表象される”と記しましたが、『ピンドラ』と全く同じことをしたフィクション作品があります。『仮面ライダー龍騎』という特撮です。
結末が同じ作品を挙げることで上述したことの説得力が増すでしょう。
 
仮面ライダー龍騎』はいわゆる"バトロワ物"の中でも有名な作品だと思いますが、一応あらすじを説明します。
神崎士郎という男には妹がいたが幼い頃に妹が死ぬ→妹は超常的な力で蘇生するが20歳で死ぬ運命を背負う→神崎士郎は妹を延命させるためにライダーバトルのシステムを作成。これは13人の"仮面ライダー"で行われる殺し合いで蠱毒のようなもの。神崎が最後まで勝ち残り"永遠の命"を手に入れ、妹を延命させるという計画。神崎以外のライダーは各々切実な願いを持っており、勝ち残れば願いを叶えられると神崎に言われ殺し合いに参加するが、それは大嘘であり完全な出来レース→神崎は時間を巻き戻す能力を持っているので自分が勝つまで何度もライダーバトルをくり返している→しかし何度繰り返しても妹を延命できない(犠牲の上で延命させられることを妹に拒否されたり、時間軸によって理由はさまざま)→結局神崎は妹の延命を諦め、結果として"ライダーバトルの存在しない世界”が再構築される~fin~
 
龍騎』においても正義は相対的なものとして扱われます。そして戦う=他のライダーを殺すこと(戦わないことを含めて)を決断させられることになります。
 
最終的に、神崎士郎は主人公の一人(蓮)に倒され、結果として"ライダーバトルの存在しない世界”が再構築されます。
決断の果てに運命が変えられる(あり得べき世界が創造されるというかたちで表象される)という構造は『ピンドラ』とまったく同じです。
また改変前後の二つの世界が連続性を持っていることが暗示される点も共通しています。そうしなければ運命を変えるために何かを決断したということの意味がなくなるからでしょう
 

改変後の世界で初対面にも関わらず因縁を感じる主人公ふたり  "仮面ライダー龍騎 最終話"
 
龍騎は』2002年の作品ですが2011年の『ピンドラ』の論点を先取りしていました。"ループ物"としてもかなり早い時期に放映された作品なのでその先駆性には改めて驚かされるものがあります。
他方『ピンドラ』は善と悪の決定不可能性=因果理解の恣意性という問題設定にたいして極めて自覚的な作品でした。それは『銀河鉄道の夜』を参照していることからも明らかです。
 
 

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